フォトグラファー・岡本尚文

『リメンバリング オキナワ 沖縄島定点探訪』

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リメンバリング オキナワ 沖縄島定点探訪

定価:1980円(税込)
仕様: 20.5x18.2x1.1cm 144ページ
発行:2023年2月2日

出版社:トゥーヴァージンズ
編著・写真:岡本尚文
監修:當間早志


内容紹介

沖縄島探訪シリーズ待望の第3弾!

歴史的出来事から市井の人々の暮らしまで。
戦後復興期と現代の<定点写真>で沖縄の歴史の変遷をたどる一冊。


昨年1年間かけて制作していた、沖縄島探訪シリーズ第3弾、『リメンバリング オキナワ 沖縄島定点探訪』が2月2日(沖縄は2月6日)に発売となります。
「戦後復興期の風景」と「同位置から撮影した現在」の写真を並べて紹介。
歴史的出来事から市井の人々の暮らしまで、定点写真と詳細なキャプションで沖縄の暮らしの変遷をたどります。
アメリカ人が撮影した戦後沖縄の写真をまとめたサイト「REMEMBERING OKINAWA」の運営者Donn Cusonさんご協力のもと、写真の一部とタイトルを使用させていただきました。
戦後復興期の貴重な写真群は必見です。
これら昔の写真の年代確認や撮影地の特定は、本書監修の映画監督・當間早志さんにお力添えいただきました。
撮影地の詳細なキャプションやコラム、撮影した場所にたどり着けるQRコード付きです。
可能であれば書店さんで購入していただき、諸事情ある方はAmazonなどネットでの購入をお願いします。

内容については少しずつお知らせしていきますので、引続きどうぞよろしくお願いします。

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『沖縄島料理 食と暮らしの記録と記憶』

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沖縄島料理 食と暮らしの記録と記憶

定価:2090円(税込)
仕様:A5/並製/192ページ
発行:2021年10月13日

出版社:トゥーヴァージンズ
監修・写真:岡本尚文
文:たまきまさみ
料理考証:仲村清司
ISBN978-4-910352-07-7


内容紹介

第6回沖縄書店大賞〈沖縄部門〉準大賞受賞作『沖縄島建築 建物と暮らしの記録と記憶』に続く待望の第2弾!

料理の数だけ、つくってきた人たちの人生がある。
「島」生まれのガチマヤー(食いしん坊)も目から満腹! の一冊です。

─── ジョン カビラ(ラジオ・テレビパーソナリティー)


沖縄には、辻という遊郭がありました。
そこは現代人がイメージする風俗とはかなり違います。そこは、社会のヒエラルキーに治らない人々、イデオロギーに参加しない人々、また、追い出された・逃げ出した人たちに、女性や子供が、安心して暮らせる居場所だったのです。
最近読んだ松村圭一郎氏の『くらしのアナキズム』(ミシマ社)によると、「昔の市場のような役割を持った「無縁所」は公界であり、債権責務の関係という世俗の縁から切り離され、逃れられる聖域だった」とあります。
1944年10月10日米軍の那覇無差別攻撃で焼かれ、「辻」もまた一夜にしてなくなってしまったのです。

戦前の辻に育った知人によると、家の脇には、沖縄らしく豚が飼われていたそうです。伝統の琉球舞踊を仕込まれ、宮廷料理人を通じて学んだ華やかな料理と、場に応じた昔ながらの家庭料理で温かく客をもてなしていたそうです。
辻には「おはよう」とか「こんにちは」といった挨拶言葉はなくて、だれに出会っても「ご飯食べたか」というのが常の挨拶になっていたそうです。「好き嫌いを言わず食べなさい」と苦いゴーヤーを食べさせられたと笑っていました。
そういった温かい人々の住む沖縄は、料理すること、食べることが暮らしの真ん中にあるんですね。沖縄の自然の食材を丁寧に扱う市場の人の手に、その優しさは今も見られます。沖縄の自然と人と人の間には、いつもお料理があるんですね。沖縄に行きたくなるのは、そうした人の温かさにほかならないと思います。

─── 土井善晴(料理研究家)


異国との交流、気候風土、古くから息づく風習や思想、社会情勢――
めまぐるしく変化する時代のなかで、独自の食文化を形づくってきた「沖縄の料理」。
食をまかなう人々は何を思い、何を信じ、「食」と向き合ってきたのだろうか。

沖縄の本土復帰から50年を迎える2022年。
暮らしと密接に関わる「食」を通して沖縄の戦前・戦後の歴史をたどるとともに、人々の歩みを記録する。

伝統文化の真髄を伝える琉球料理店、どこまでもこだわりつづける沖縄そば屋、流れるような所作から生まれる繁多川の豆腐店、戦後米兵向けのレストランからスタートしたステーキハウス、コザの町の移ろいを知るタコス店など、10軒のインタビューを収録。
そのほか本島北部から南部まで、地域に根ざす料理店・場所全42軒を取材し、食に関わる人々の話を聞いた。

沖縄の料理の概要をわかりやすく伝える解説ページや、ガイドマップも充実。
思わずお腹が空いてくるさまざまな料理と聞き書きの生活史から沖縄を知る、新たな視点の一冊。

<取材先店舗の一部>
・琉球料理 美榮
・本家新垣菓子店
・首里そば
・長堂豆腐店
・ROSE ROOM(ローズルーム)
・ジャッキーステーキハウス
・cafe OCEAN(カフェ オーシャン)
・中国料理 孔雀樓
・GODIES(ゴーディーズ)
ほか

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『沖縄島建築 建物と暮らしの記録と記憶』 (味なたてもの探訪)

沖縄島建築 建物と暮らしの記録と記憶

定価:2200円(税込)
並製:192ページ
  梱包サイズ:20.8 x 14.8 x 2.2 cm
発行:2019年12月4日

普久原朝充 (監修), 岡本尚文 (ディレクション&写真)
ISBN978-4908406409


内容紹介
建物から人々の暮らしと時代性を探るビジュアル探訪記「味なたてもの探訪」シリーズ

第2弾は時代の変遷が生み出したさまざまな表情をもつ「沖縄の建築」

木造建築、コンクリート建築、赤瓦、セメント瓦、琉球、日本、アメリカーー
多様な文化が混ざり合う沖縄のまちと建築を通して、
時代の流れのなかを生きた人びとの暮らしの「記録と記憶」をまとめた一冊。

琉球王朝時代の名残をとどめる建築、現存する数少ない戦前建築、
そして戦後アメリカ文化の影響を受けた建物まで沖縄の歴史を辿る10軒を取材。

その他、沖縄独特の建築意匠やアイデア、地域の商店などを紹介したコラム、
沖縄本島4エリアの見るべき建築を、写真と専門的な解説で紹介したマップなど。
普通のガイドブックでは物足りない方にもオススメな一冊。

取材先10軒
・戦前から残る沖縄最大級の木造建築「津嘉山酒造所」
・現存する沖縄最古のコンクリート建築「大宜味村役場旧庁舎」
・琉球王朝時代より続く「玉那覇味噌醤油」
・世界一小さな現代美術館「キャンプタルガニー」
・1950年創業首里唯一の映画館「首里劇場」
・沖縄最古のホテル「沖縄ホテル」
・戦後木造建築で営むさしみ屋「親川鮮魚店」
・与那原の丘の上に建つ「聖クララ教会」
・沖縄最初のドライブイン「シーサイドドライブイン」
・沖縄で唯一メガネのレンズを製造していた「OIC Optical Company」

コラム
「石造文化に咲いた花ブロック」、「沖縄住宅の顔・鉄門扉」、
「占領と外人住宅」、「海辺の村の理容館へ」etc

その他
沖縄建築の系譜図、建築歴史年表、建築マップなど。

目まぐるしく変わりゆく
時代の中で
変わらない沖縄の記憶がここにある。
伊礼 智 (建築家)

建築は人生だ。建築は家族だ。建築は社会だ。
バスターミナルも農連市場もなくなったけど、
路地を歩けば、「ふつうの沖縄」がこんなにも。
岸 政彦(社会学者)

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写真集『沖縄02 アメリカの夜 A NIGHT IN AMERICA』

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岡本尚文写真集 沖縄02 アメリカの夜

定価:2200円(税込)
並製:60ページ A4
発行:2016年9月22日

著者:岡本尚文
編集:ライフ・ゴーズ・オン
装幀:松永路
テキスト:岸政彦
翻訳:栗田千左子
リライト:山本和生

許可なく、掲載されている写真、テキストの転載を禁じます。

発行所:有限会社 ライフ・ゴーズ・オン
発行人:岡本尚文
〒179-0083
東京都練馬区平和台2-28-2 N-FLAT201
TEL:03-6913-0032
FAX:03-6913-0032
e-mail:life-goes-on@okinawa.email.ne.jp
ISBN978-4-9904437-1-9
©2016 岡本尚文


Photographs by Okamoto Nobumi
Edition by life-goes-on
Designed by Matsunaga Michi
Text by Kishi Masahiko
Translation by Kuruta Chisako
Rewrite by Yamamoto Taro

Publishing by life-goes-on inc.
201,2-28-2,Heiwadai,Nerima,Tokyo,JAPAN
Tel: 81-3-6913-0032
http://okamotonaobumi.com
e-mail life-goes-on@okinawa.email.ne.jp
ISBN978-4-9904437-1-9



「沖縄のマジムン(魔物、もののけ)が立ちのぼる写真集」

岡本尚文さま

 素晴らしい写真集をお送りいただき、ありがとうございました。
 じつに不思議な写真たちですね。そこに写されているのは、紛れようもない建物、看板、クルマ、街灯──といった有形有体の物質なのに、私の眼はぜんぜんちがうなにか──形のないものを見ているようです。

 私が初めて沖縄に渡ったのは、1969年の夏、「復帰前」のOKINAWAでした。コザの郊外にハウスを借り、映画を撮影していました。
 琉球海運のひめゆり丸で那覇港に上陸したとき、係官が真っ先に提示を求めたのは顔写真付きの「渡航許可証」。本土・沖縄間の行き来にはパスポートが必要だったし、滞在するにはビザの申請をしなければなりませんでした。

 クルマは右側通行、通貨はUSダラー。港の銀行でわずかばかりの千円札を1ドル紙幣と25セント玉に両替しました。沖縄は「アメリカ世(あめりかゆー)」の真っただ中にありました。

 基地の街コザはOKINAWAの縮図でした。日本本土には見られないDIRTY WAR(醜悪なベトナム戦争)の「闇」がありました。
 出撃した米兵たちの多くがボディ・バッグ(遺体を詰めた寝袋)に詰められて基地に帰還します。街の市場では、胸と腹を銃弾で切り裂かれ、大小の穴が空いたままの迷彩服がハンガーに吊るされ、黒ずんだシミの痕が生々しく残るボンバー・ジャケットが売られていました。

 夜の街は荒れていました。明日をも知れぬ米兵たちを相手にした「3ドル売買春」が繁盛していました。15分=3ドル、30分=5ドル、オールナイト=10ドル(黒人兵用の相場です。白人兵の場合には「より高級な売買春宿」があって、15分=5ドル、30分=10ドル、オールナイト=20〜50ドル以上と格差がありました)。
 苦界に身売りした女性たちが街の景気を支えていました。ウチナーグチ(沖縄言語)では、彼女たちのなりわいを「モトシンカカランヌー(元手のかからない商売)」ということを知りました。

 コザの大通りは白人街と黒人街に区分けされていました。白昼の路上で、白人兵と黒人兵が入り乱れて殴り合う流血沙汰やリンチがありました。
 ある蒸し暑いスコールの夜、私たちがコザ十字路近くのスナックで泡盛を飲んでいると、黒人たちがたむろするホンマチ・ストリート(本町通り)で、人種差別に抗する暴動が発生しました。私たちが撮影機材を手に現場へ駆けつけると白人憲兵のパトカーが烈しく炎上していました。“Black is Beautiful !=黒い肌こそ美しい!”──アフロ・アメリカンたちは白人社会の美意識と価値観を根こそぎひっくり返そうとしていました。

 沖縄は異国でした。血塗られたアメリカでした。コザは屈辱にまみれたサイゴンでした。

 ──にもかかわらず、OKINAWAの街並みは美しかったのです。クルマで軍用道路1号線を那覇からコザへ飛ばすと、赤土の切り通しのカーブの曲がり端(はな)でふいに視界が開け、赤と白に塗り分けられた2本の巨大な煙突があらわれ、その向こうに白波が泡立つ東シナ海が見えたりして、さながら、アメリカTV映画の『ルート66』の冒頭シーンのようでした。

 コザの市街に入ると、プラザ・ハウスからはじまる商店街はとてもにぎやかで、原色のペンキも鮮やかな横文字の看板がずらりと並んでいて、これはハリウッド映画の西部劇の宿場街のようでした。

 OKINAWAで最も美しかったのは基地でした。南国の青空の下、手入れがゆきとどいた芝生の上に米軍ハウスが整然と並んでいました。赤いブッショウゲが咲きそろうその庭から、黄色いナンバープレートに「KEYSTONE OF THE PASIFIC」と書かれたピカピカの大型車が滑り出してきたりします。そんな光景に出会うと、なぜか、心がうきうきしてきたのを憶えています。

 ほんとうにヘンな感覚なのですが、私にとって、それが1969年のOKINAWAであり、偽らざるコザの実感でありました。

 岡本さんの『アメリカの夜』を開いたとき、私の眼が見ていたのは、あのときの「それ」だったのではないかと思い当たりました。
 見る者の無意識に前触れなく達し、その深奥を妖しくマッサージする写真たちだと思います。ありがとうございました。

村瀬春樹

村瀬春樹
■略歴
 1944年:横浜市生まれ。エッセイスト。道具学研究者(便器/湯たんぽ/戦時下の代用品蒐集家)。
 1964年〜:早大全共闘卒(ノンセクト・ラジカルズ)。在学中から独立プロで反戦記録映画を製作。
 1969年7月:「本土復帰前」の沖縄へ渡航。コザ(現・沖縄市)を拠点にドキュメント映画を撮影。ヨシワラ(売買春街)の女性たち、嘉手納基地に駐屯するアフロ・アメリカンの兵士たちと出会う。
 1970〜80年:ゆみこ・ながい・むらせとともに「武蔵野火薬庫・ぐゎらん堂」(武蔵野市吉祥寺)主宰。500回以上のライブ&イベントを企画・開催。
 1980年:全ての仕事を辞め、ハウスハズバンド(主夫)に。
 1984年〜:執筆活動再開。多様な分野で新聞・雑誌に執筆。
 2009年〜:戦争を証言する「戦時下の代用品コレクション」など2000点を沖縄市に寄贈。報道写真家・石川文洋氏と村瀬&ながいの名を冠した「写真と道具の常設展示館」=沖縄市立『ヒストリートII』が開設される。
■主な著書など
『誰か沖縄を知らないか』(三一書房)/『怪傑! ハウスハズバンド』(晶文社)/『台所タッグマッチ!』(大和書房=ゆみこ・ながい・むらせとの共著)/選集『日本のフェミニズム』(岩波書店)中に『主夫革命』/『本気で家を建てるには』(新潮社)/コミックス『住宅探偵におまかせ! マンガでわかる家づくり 』Vol .1〜4(講談社)/コミックス『熱血棟梁! 一平太が行く』Vol .1〜2(日経BP社)/『おまるから始まる道具学/モノが語るヒトの歴史』(平凡社)ほか著書・論文多数。

《写真集『アメリカの夜』を拝読して》

初めて沖縄を訪れたのは2年前。生きて来た年月を考えれば随分と遅い訪島になってしまったが、それまで行く機会がなかった。というより行く理由がなかったといった方が正しいだろうか。初訪島は本を書くためのプレ取材が目的だった。拙著既刊では、東京の横田基地周辺や神奈川のキャンプ座間、埼玉のジョンソン基地、九州のキャンプ・ハカタや長崎の佐世保保艦隊基地など、東京以西の米軍兵士用平屋住宅=通称「米軍ハウス」の取材をして来ていたため、私にとってそれらの多く残る沖縄は「生物学者にとってのアマゾン」のような地であった。そのアマゾンが作ってくれた、ようやくこの年齢になっての着地の機会といういささか恥ずかしい経緯である。

本土の基地周辺の街に漂っていた「アメリカの香り」は、今世紀に入って20年近く経つ現在、すっかり「出がらしの出がらし」状態になっている。私が少年時代に邦画のスクリーンの中で観た「首都圏の西側に横たわる米軍が持ち込んで来たカルチャー」は、その片鱗を探すことさえ今は難しい。件の米軍ハウスはじゃんじゃん解体され、今では往時の1割ほども残っていない。英語の手描き看板も今や和文の打ち文字に取って代わられた。日本人も米国人も同じような洋服に身を包み、外食チェーン店に入って行く。アメリカンカルチャーが消えたというより、国籍も存在意図もはっきりとしない「現代」という企業中心社会の風景の中に溶け切ったように感じる。

沖縄も似たような状況だった。古き善きアメリカの香りは残滓(ざんし)といった程度で、本土からやって来たナショナルチェーン店の看板の方が今やすっかり“占領 ”している。むしろ東京化が始まっているようにさえ見えた。というのも、件のゲンパツ爆発の影響から沖縄には本土からの移住者が爆発的に増え、それを見越した企業が大挙を成して参入しバブル景気を引き起こしているのだ。今や軍が運んで来た異国情緒たるものは、国内の大企業にすっかり駆逐され始めた感である。

そんな沖縄を回るにつけ、本土では見られない独特なテクスチャーの穴空きブロック塀や、古家の瓦屋根や外壁からにじみ出る沖縄の土着的風合いの中に、何度も染め抜いたはずの布から地の色が出て来てしまっているような「根強さ」を見つけると、むしろそちらに激しく感情を動かされた。探していたはずの欧文看板の続く小路なんぞに迷い込んだり、カフェやファストフード店でタトゥーを太い腕に載せた短髪の白人兵士たちに出くわすと、かえって困惑。とたんに未だ「占領下の日本」にいるという認識を強いられた気分になるのだ。傍観していた路地から引き摺り出され、当事者の席に座らされる。そして沖縄の現実を見ろと目を見開かされるのである。首都圏の基地の街でもここまでこんな気分に陥ることはそうない。「アメリカの香り」というような気分とは無縁の、なにかゴリッとした硬いものを押し付けられるようなこの感覚こそが沖縄であり、沖縄の人々が日々味わっているものなのだ。「そうか、こういうことなんだ」となにか腑に落ちたような腑に落ちないような、居心地の悪い気持ちになった。

『アメリカの夜』はそんな憤懣(ふんまん)やるかたない感情を写し取っているのではないか。あなたの期待する沖縄の今はこんなふうですと、その風景が冷静に並べてあるように映る。そこにロマンチシズムや郷愁感といった、かつての邦画がメタファーとして用いた感覚の流用は見当たらない。「本当の取材をしたいのであればそこでしばらく暮らせ」ということを言っていたフォトジャーナリストがいたが、この写真集にも住むことでしか持ち得ない慧眼を感じる。
思わぬ付録として付いて来た“古き善き”彼の国のカルチャーは、残像だけを置いてすっかり蒸発してしまった。今は鈍色の武闘設備だけが固化して背中にこびりついているこの島。ときに美しい海や明るい県民性の前にかき消されてしまうが、夜になると寂しい顔つきでその現実を語り出す。この顔の沖縄と君たちはもっと向き合わないといけないはずだ、と質されているのである。

もしこの作品に続編があるとするなら、今度は文章で読んでみたい。この写真集のキャプション的なエッセイでも良いと思う。SNSなどでしばしば拝読する岡本氏の軽やかで優しい文章からも、アメリカの夜を覗いてみたいと感じた。そういうセキュエルも今ならばあってよいと思う。(了)

アラタ・クールハンド

アラタ・クールハンド
イラストレーター/文筆家/東京都出身
広告、挿絵、ロゴタイプの制作からパッケージデザイン、洋服の企画まで「描く」に関するオールラウンドな部分を仕事とする。また、幼少期の生活体験から愛好する古い平屋=FLAT HOUSEの魅力を紹介した『FLAT HOUSE LIFE』(中央公論新社)とその二巻目(現在は『FLAT HOUSE LIFE1+2』として合本)を発刊。それをきっかけに本の制作に入り、一冊に平屋一軒という更にマニアックな『FLAT HOUSE style』を自費出版しシリーズ化した。今夏は九州の平屋のみを編んだ『FLAT HOUSE LIFE in KYUSHU』(辰巳出版)をリリース。その他の著書には『HOME SHOP style』(竹書房)『木の家に住みたくなったら』(エクスナレッジ)がある。現在は東京都下と福岡のフラットハウスで二拠点生活を送りながら、古家を再生させたり米軍ハウスでゲストハウスを運営するなどの活動を展開する平屋フリーク。

  ぼくは返還直後の沖縄の当時のコザ市の夜の通りを知っています。
ライブの主催者が案内してくれたんだと思います。
昼間の静寂に比べて、夜のコザはそれはそれは混乱の極みに見えました。
ただ慣れていなかったからだと思いますが、大変な所で生きているんだなあ、と強く思いました。
今回の写真集には人は映っていませんが、同じような混乱と緊張が夜に感じられます。
人がいない分、かえってそれがむき出しになっているのかもしれません。
そして人がいない分だけ、過去と未来を感じさせます。現在というのは人間しか持ちえないものかもしれないです。写真集でそう感じました。
今度沖縄に行ったとき、この写真集の中の沖縄を探してみます。

友部正人
ミュージシャン
プロフィール
HP

岡本が友部さんについて書きました
岡本尚文ブログ
琉球新報「晴読雨読」

『沖縄02 アメリカの夜 A NIGHT IN AMERICA』によせて

  何だかうまく説明できないのだが、岡本尚文さんと一緒にいろんなことをしていても、写真家と一緒にいるような気がぼくにはあまりしない。
もちろん岡本さんは写真を撮影するフォトグラファーであり、動画を撮影するビデオ・カメラマンである。
ぼくの歌を映像で記録してインターネットで発信しようと、岡本さんが始めてくれた「Dig Music Gazette」では、すでに13曲を撮り終えているし、これまでにたくさんのスチール写真も撮ってもらった。
目の前にはビデオ・カメラを回し、スチール写真を撮る岡本さんがいるのだが、歌っているぼくは写真家と一緒にいる気がしない。
むしろミュージシャンと一緒にいるような、岡本さんと一緒に演奏しているかのような、そんな気持ちになってしまう。
  これまた言葉足らずの説明になってしまうが、岡本尚文さんは歌うように、楽器を演奏するように、写真を撮っている人、撮影をしている人なのだとぼくは感じてしまう。
その表現は、写真というよりもむしろ音楽なのではないかと思ってしまうのだ。
岡本尚文さんの歌、すなわち写真は決して派手ではないし、饒舌でもない。むしろ寡黙で、静謐な印象を受ける。
新しい写真集『A NIGHT IN AMERICA 沖縄02 アメリカの夜』を見ても、そこにはほとんど人が写っていなくて、ただ沖縄の夜の街の風景が捉えられているだけだ。
歌で言うなら、歌詞がほとんどなくて、演奏の合間に沈黙が忍び込んでくるような歌。
しかし言葉数や音数のうんと少ないその歌は、時としてとんでもなく大きくて、強くて、激しいものを伝える。
岡本さんの写真も、同じ意味でとても雄弁で、ひっそりとした夜の風景の向こうには、撮影者の熱い思い、そして沖縄の複雑な感情が渦巻いている。
理屈ではなく、説明ではなく、言葉になるものではなく、ひりひりと痛む魂の叫びのようなものを伝える岡本尚文さんの写真。
 三たびうまく説明はできないのだが、岡本さんの写真は、音楽で言うなら、パンク/ニュー・ウェーブのようにぼくには思えてならない。

中川五郎
ミュージシャン 60年代半ばからアメリカのフォーク・ソングの影響を受けて、歌い出す。 70年代に入ってからは音楽に関する文章や歌詞の対訳などが活動の中心に。 小説の執筆やチャールズ・ブコウスキーの小説や『ボブ・ディラン全詩集』(ソフトバンク)などさまざまな翻訳も行っている。 1990年代の半ば頃から、活動の中心を歌うことに戻し、新しい曲を作りつつ、日本各地でさかんにライブを行なっている。
GORO NAKAGAWA WEBSITE
岡本との共作に「Dig Music Gazette」がある。ふたりがコラボレーションして歌と映像を届けるシリーズ。

岡本尚文さんの写真集によせて

  沖縄の風俗業界で働く若い女性たちの聞き取り調査をしていると、彼女たちが暴力の被害者であることがよくわかる。彼女たちは、基地のそばに住んでいる男たちからの暴力をうけて育ち、子どもを生んで、あっという間に大人になる。
  街を分断する基地のフェンスは、米軍を守るものであって、暴力から逃れようとする彼女たちが逃げ込める場所ではない。だから彼女たちはフェンスのそばを、たったひとり裸足で逃げる。
  岡本さんが撮る、オレンジ色の基地の光が照らすフェンスで分断された無人の街は、暴力を受けたその場から、何も持たずに逃げ出した彼女たちが見た街である。無機質で冷たい。どこからも助けはやってこない。
  だがそれは、今の沖縄の景色につきるものではないだろう。私たちの母や祖母といった、沖縄で暮らす女性たちのみた街もまた、同じような景色だったのだろう。
岡本さんは、1950年代から60年代に大量につくられた基地内外の「外人住宅」とともに、基地返還後、リトル・アメリカと銘打つ北谷町の夜の姿を同時に記録する。また別の写真集『沖縄01 外人住宅』は、沖縄の土地で、星条旗と日の丸がともに風にたなびく姿を記録する。それらは軍隊という暴力装置とともに生かされ、それゆえに暴力を内包せざるをえない沖縄の歴史を刻印した記録である。
  岡本さんの撮る強い光に満ちた沖縄の写真は、一見すると単にアメリカンナイズされ異国情緒あふれた街の記録のようにみえるだろう。だが沖縄の夜の暗さを知るものには、幾重にも堆積した暴力の記憶と、新たな暴力の予兆に満ちた街の記録に見えるだろう。
  沖縄の地にこれ以上、フェンスで区切られた場所を造るわけにはいかないとぎりぎりの闘いを続ける辺野古に、高江に思いを馳せて手にとられるとき本書は真の力を持つ。贅沢で華美な装幀を拒否し、移動する身体に合わせて創られた書だ。これは、闘いの現場に伴走する書でもある。

上間陽子(琉球大学 教育学研究科教授)

沖縄。
オレンジ色の夜景。 そこには基地のゲートやフェンスというはっきりとした形が出現したり、古びた建物の看板など、かつて沖縄とアメリカが交わした蜜月の痕跡も浮かび上がる。
写真には、よく見ると光の航跡となって写り込んだ米軍ジェット機やオスプレイ、またはフェンスの前でたむろする沖縄の子ども達の姿がある。
どれもが沖縄の日常として今、存在している。
『アメリカの夜』というタイトルはフランソワ・トリュフォーの映画から想起した。
古い映画では昼間に夜のシーンを撮るためにブルーのフィルターを装着して「夜」を撮影する。
フェイクな「夜」。
そのことを浅川マキは『アメリカの夜』という曲で歌った。
私は音楽をきっかけにアメリカの文化に強く影響を受けた。
それは「格好の良い」フェイクなアメリカでもあるが、この島の深淵には別の顔が潜んでいる。
沖縄とアメリカ、日本、そして自分との関係。
それが何なのか、答えを探している。
だから写真を撮り続けて「採集」する。
夜に現れる沖縄のアメリカを。
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2008年に発刊した『沖縄01 外人住宅』に続く2冊目の写真集。
引き続き、沖縄とアメリカ、そして日本についての写真。

今回の写真は、2009年から2016年の間に沖縄本島で撮影された。
沖縄の夜に浮かび上がる「アメリカ」がテーマだ。

いまは寂れてしまった大通り。
かつて、多くの米兵が街に繰り出した。コザや砂辺、金武周辺にはその残り火がいまも微かに燃えている。
夜9時過ぎの夏の晴天、浦添上空をゆっくりと流れて行く雲。オスプレイが一筋の光を残し、低周波の音を立てて通り過ぎていく。
また、辺野古の海上に写る赤い軌跡。 いわゆる辺野古のフェンス、砂浜と海、そして海を照らす月明かりが写っている。 今では、コンクリートで固められたフェンスがこちら(日本)とあちら (アメリカ)を隔てているが、そこは数年前まではフェンスは鉄条網であり、反戦の意思表示の リボンが結びつけられていた。
凪いだ海の上の赤い点線が左右に写し込まれている。この赤い点は、夜の10時過ぎに辺野古の海上を行く米軍ヘリの軌跡。
言葉で言われなければそれは綺麗な軌跡でしかない。
写真と、言葉について考える。
望んだ訳ではなく戦争によってアメリカと出会ってしまった沖縄。
その歴史のなかの愛と憎悪。
ノスタルジーや美しさと反基地。

歴史から消えていくもの。
嫌悪する中で、それでも尚、美しさやノスタルジーが浮かび上がるということは、どういう事なのか?
「癒しの島」沖縄の日常になぜ今もアメリカが浮かび上がるのか?
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テキストは『同化と他者化ー戦後沖縄の本土就職者たち』で沖縄と日本について鋭い考察を行い、『断片的なものの社会学』で紀伊国屋じんぶん大賞を受賞した社会学者の岸政彦さんにお願いした。
書き下ろし。届いた原稿は7000字。
私も岸さんも内地の人間として沖縄と関わっているという自覚のもとに、沖縄とアメリカ、また、日本について、真正面から向かい合った。
テキストが単なる写真の解説ではなく、相互に響き合い、ノスタルジーや美について思いを巡らす、それを形にしてみようと思った。
装幀はシンゴジラ公式記録集『ジ・アート・オブ・ゴジラ』、昨年度大きな話題になった蔡國強展の図録など、美術関係の書籍の装幀を数多く手がける松永路さん。
今回の写真集は所謂上製本の写真集は敢えて目指さずに、1960年代後半、活発に出版された日本の写真集を意識して作成された。

岡本 尚文

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写真集『沖縄01 外人住宅 OFF BASE U.S. FAMILY HOUSING』

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岡本尚文写真集 沖縄01外人住宅

著者:岡本尚文
定価:5500円(税込)
上製:80ページ 280mm×280mm

編集:畑中章宏
装幀:名児耶肇(warren)
製版:谷口倍夫
テキスト:小倉暢之(琉球大学工学部教授)
地図作成:尾黒ケンジ
翻訳:末岡秀子
印刷・製本:株式会社 サンエムカラー
発行所:有限会社ライフ・ゴーズ・オン
発行人:岡本尚文
〒154-0002
東京都世田谷区下馬2−26−15下馬ハイム108
TEL 03-5486-8889
ISBN978-4-9904437-0-2
©2008 岡本尚文

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沖縄「外人住宅」の光と影

1985年にヴェトナムのホーチミン(旧サイゴン)を訪れたとき、戦勝十周年の数々のイヴェントを前に、街は華やいだ空気に満ちていた。
今とくらべようもなく、人々のなかにアメリカに対する憎悪や嫌悪が残っていたに違いないのだが、街なかでは、朝から驚く程の大音量でカーペンターズの曲などアメリカのポップスが流れていた。スピーカーの割れた音も気にすることもないくらい、この地の人は甘い音楽が好きなのだろうと感じたと同時に、つい最近まで戦争をしていた相手の国の音楽を「政治と文化は別」とばかりに流し続ける彼らに、生きる逞しさのようなものさえ感じた。そして、その帰りに初めて那覇に立ち寄った。
1960年以降のヴェトナム戦争のただ中、沖縄がアメリカ軍の前線基地としてあった時代、米軍関係者の増加にあわせて、いわゆる「外人住宅」が現地の建設業者によって次々と建てられた。基地を抱える中部を中心に1972年頃には約1万2000戸にも達した。
「外人住宅」は基地内住宅をベースとした、台風対策としてのコンクリートブロックの壁式構造になっている。この住宅建設に関わった多くの地元工事関係者によって、その後の民間コンクリート住宅も建てられていった。
ヴェトナム反戦、基地反対闘争に平行して、こうした建設を中心とした経済が地元を潤したことを大きな矛盾として抱きつつも、政治的に強制されたなかでの逞しい生き方の一つとしてとらえることができる。
これらの建物は、戦後の沖縄の人たちにとって憧れの対象でもあったが、本土復帰とともに建設は終りを告げ、40年以上経った今では、老朽化が進み、近い将来取り壊される運命にある。
「外人住宅」は、単に外国の住宅を模したというだけでなく、沖縄ならではの工夫も加えられた。「花ブロック」と呼ばれる透かし模様のコンクリートブロックが強い日差しをさえぎり、風通しを良くする外壁として使われ、外観的魅力として建物を特徴づけている。
この「花ブロック」は、戦後、廃墟と化した住居復興に尽力し、歴史的建造物の調査・研究・復元に務めた沖縄を代表する建築家・仲座久雄(1904-62)による考案であり、仲座はコンクリート住宅の普及に努めた。
異文化を自国の文化と融合させながら新しい文化を形成していく。音楽であれ、美術であれ、建築であれ、異文化が混合した所に新しい花が咲く。
本土復帰までの27年間のアメリカの支配は文化的、経済的な影響の反面、住民の大きな反感や憎しみを生んできた。そして復帰後もなお、変らぬ基地の土地支配や米兵による犯罪という問題が続いている。
沖縄特有の眩い陽光のもと、「外人住宅」や「沖縄建築」の写真に見られるあっけらかんとした光と影の裏側には、実は地元の人々の愛憎が深く刻まれているように思えるのである。

伊勢功治[いせ・こうじ]
富山県生まれ。グラフィク・デザイナー。2013年、「マリオ・ジャコメッリ写真展」(東京都写真美術館)デザイン担当。著書に写真評論集『写真の孤独』(青弓社)、詩画集『天空の結晶』(思潮社)。『北方の詩人 高島高』。

「アメリカへの憧れと反感を象徴するかのように建つ「外人住宅」、そこに写り込んでしまう沖縄の光、風、植物がミックスされた絵画のような写真。
クレオール語がもし東洋で、宗主国をアメリカとして、写真メディアの中で生まれたならば、こういうものになるのかもしれないと思った。
福生・相模原・横浜と、東京郊外の米軍ハウスに親しんだ同世代として、沖縄の中にそれを見つめる目が新鮮で、印刷・製本とも質の高い写真集です。」

小畑雄嗣(写真集『二月』著者)

1945年、沖縄戦終結。戦死者およそ20万人。
沖縄は日本の独立の代償としてアメリカに提供され、米軍による軍事的支配が始まる。
1946年4月、沖縄民政府設立
1950年6月、朝鮮戦争勃発
1952年4月、サンフランシスコ講和条約と日米安全保障条約が発効。
日本は独立するが、沖縄は日本から切り離され、米軍の施政権下におかれる。
いわゆる「Key Stone of the Pacific太平洋の要石」として、冷戦下の軍事的拠点となる。
1960年、ヴェトナム戦争勃発
1972年、沖縄返還

こうした戦後沖縄の歴史の中で、「外人住宅」は必然的に誕生した。
「太平洋の要石」として沖縄の基地は増強され、同時に軍人軍属およびその家族も増えていった。
そのため基地内の住宅施設ではそれらの人員を収容しきれなくなり、民間による外国人(アメリカ人)専用の賃貸住宅が建設されるようになった。

この写真にあるコンクリートスラブのフラットルーフ、鉄筋とコンクリートブロックを使用した「外人住宅」は1958年頃から建造され、以後1970年前半まで増えつづけた。
「外人住宅」は基地周辺に存在した。その北端は石川市(現在のうるま市)、南端は佐敷町であったが、嘉手納や普天間などの大規模な基地を抱える中部を中心に多くの住宅が建設された。
軍の要請による「外人住宅」の建設には土地建物の広さ、素材の選定や間取り、付帯設備など様々な条件が義務づけられ、沖縄の民間業者は米軍指導のもと、手探りで住宅建設を開始した。
代表的な住宅は、一戸あたりの総面積が約300m²。そこに100m²前後の建物、エアコン付きの3ベッドルーム&リビング、キッチン&バス、それにユーティリティールームと呼ばれるメイド用の作業ルームが備わる。それ以外の敷地は広々とした芝生のガーデンと駐車場として使用された。

沖縄とアメリカ。それは、沖縄の人々が自主的に選び取ったものではなく、戦争と占領によって強制的に出会わされた。そして、60年以上たった今も続く「占領」と暴力。
アメリカとの間で、逆説的に産まれた「文化」。そして、沖縄と写真を思考すること。
その始まりとしての「沖縄01『外人住宅』」。

岡本 尚文



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